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【書評・ブックレビュー】 『メールストロムの旋渦』 エドガー・アラン・ポー

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船は円周の広々とした、深さも巨大な、漏斗の内側の表面に、まるで魔法にでもかかったように、なかほどにかかっているように見え、その漏斗のまったくなめらかな面は、眼が眩むほどぐるぐるまわっていなかったなら、そしてまた、満月の光を反射して閃くもの凄い輝きを発していなかったら、黒檀とも見まがうほどでした。そして月の光は、さっきお話ししました雲のあいだの円い切れ目から、黒い水の壁に沿うて漲りあふれる金色の輝きとなって流れ出し、ずっと下の深淵のいちばん深い奥底までも射しているのです。

 小説の基本として、「見てきたような嘘をつく」ということがある。作者がリアリティ溢れる嘘を巧みにつきとおすことで、読者はまるで自分が本当にその場にいるかのように感じることができる。もちろん、当たり前すぎるくらい当たり前のことではある。しかし、それが本当に上手くいった場合の読者への効果・影響は、決して軽視してはならない。

 不用意な読者ならば、作者の書いたことは全て作者の実体験であると信じ込み、小説を書くためには自分自身の人生の中でネタになるだけの実体験を積むことが必要不可欠だと、そう思い込むかもしれない。あるいは、不注意な編集者が小説の記述を事実と取り違えて、百科事典に取り上げてしまうことさえ、あるかもしれない。 

 

SF・ミステリー小説の源流

 エドガー・アラン・ポーは19世紀前半のアメリカの詩人・小説家であり、その後の欧米での文学の展開に多大な影響を及ぼした。特に、怪奇小説、推理小説、SF小説は、ポーなくして今日の繁栄は考えられない。簡素でありながら緻密に計算され、人間の根源的な恐怖や不安を映し出す作風は、文学のみならず、精神分析やシュルレアリスムの絵画・映画にも多くの刺激を与えてきた。

 ここで紹介する短編は、嵐の海で巨大な渦潮に巻き込まれた漁師が、恐怖を感じながらも周囲を冷静に観察し、自らの知恵を振り絞って生還する物語である。「メールストロムの旋渦」という題名は、新潮文庫の旧版『黒猫・黄金虫』に収録されている佐々木直次郎氏の訳によるものであり、青空文庫でも読むことができる。現在、新潮文庫からは「大渦巻への落下」(『大渦巻への落下・灯台』所収)という題名で新訳が出ているほか、創元推理文庫では「メエルシュトレエムに呑まれて」(『ポオ小説全集〈3〉』所収)、岩波少年文庫では「大渦にのまれて」(『モルグ街の殺人事件』所収)と、数多くの翻訳がなされている。

 

リアルな描写を生み出す想像力

 本作の特徴は3つある。1つ目は、まるでポー本人が現地を見てきたかのような、自然の猛威の有り有りとした描写である。2つ目は、神威や怨霊などオカルト的な要素を排し、恐怖の中でも客観的で冷静な眼差しを貫いていることである。そして3つ目は、渦に呑まれたノルウェー人の漁師自身の実況や回想として語られるのではなく、その漁師が外国人の「私」に対して報告する形で語られていることである。

 1つ目の克明な描写であるが、これはもちろん、ポー本人が現地を見てきたことを意味しない。それどころか、本作での描写は現実のメールストロムよりも遥かに誇張されている。作中の渦潮は直径が1マイルにも達し、渦の中では水面が45度に傾斜して漏斗を成しているが、そんなとてつもない渦潮は世界中のどの海でも見つかっていない。まして、傾斜した水面が月光に輝く様を渦の中から眺める描写が、誰かの実体験であるはずがない。この描写は、紛れもなく、作者自身の卓越した想像力に基づくものである。

 しかし、本作が感じさせる臨場感やリアリティは、単なる写生の力のみによるものではない。そこには、実に様々な工夫が凝らされている。それが2つ目の冷静で客観的な観察や、3つ目の伝聞調での記述といったものなのだ。

 

リアルな描写を支える仕掛け

 ポーは本作よりも、「黒猫」などの怪奇小説・ゴシック小説の方面で著名である。そのポーの筆力をもってすれば、ただでさえ恐ろしい大渦巻の猛威を、超自然的な力や運命の采配と織り交ぜて、さらに効果的に描き出すことが可能だったはずである。実際、「アッシャー家の崩壊」の冒頭に描かれる自然は、主人公の主観と不吉な予感を伴って、本作より一層不気味であった。しかし本作に関して、ポーはそうした描き方を拒んだ。それどころか、渦潮をめぐる過去の論考や百科事典の記述を数多く引用し、現地で見た印象とそれらとの違いを論じたりしている。どうやら語り手である「私」は、様々な知識に通じているだけでなく、様々な土地を旅して様々な自然を目にしている、学者のような人物であるようだ。ポーによって考え出された全く嘘の光景が、この学者による全く嘘の検討や分析を通じて、どんどんリアリティを増してゆく。

 その学者を崖の上に案内し、海峡に渦を生じる場面を見せるのが、本作の実質的な主人公とも言える、渦に呑まれた漁師である。この漁師を語り手にせず、学者である「私」による伝聞で書いたことの意義も考えなければなるまい。この漁師を「私」として、学者を介さずに渦の恐怖を語っていたら、どうなっていたものか。おそらく、物語全体の「作り物」っぽさが、より強く感じられていただろう。読者にとって、この物語を書いている作者を渦に呑まれた漁師と同一視することは困難だが、その体験を聴いている学者と同一視することはたやすい。このことによって、作者が作った物語を読んでいるという感覚を減じることができ、作者を通じて物語の聞き手の立場に同化することもでき、ともに語り手の物語へと没入していくことができる。

 

そして、インターネット時代の伝説へ

 このようにして生み出された本作のリアリティがあまりに徹底していたため、その記述がメールストロムの渦潮に関する真実であると、数多くの読者が誤解することになったと言われている。中でも『ブリタニカ百科事典』に引用されたという伝説は、本作のリアリティの凄まじさを物語るに充分であろう。ウィキペディアの日本語版と英語版には、ともにこうした内容の記述がある。曰く「本書の一部が真実と誤解されて『ブリタニカ百科事典』に引用されたが、もともとその部分はポー自身が『ブリタニカ百科事典』の古い版から剽窃したものであった(表現は一部変えた)」。

 しかし、これは奇妙なことである。『ブリタニカ』の記述をポーが引いて、それを『ブリタニカ』が再び引いたのだとすれば、それは『ブリタニカ』側が先に「真実」と認めていたはずの内容であり、ポーの記述を「真実」と誤解して載せたということにはならない。

 ポーは語り手である学者に多くの文献を引用させている。その中には『ブリタニカ』の記述も含まれており、ウィキペディア(で引用されているJeffrey Meyersという人物のEdger Allan Poe: His Life and Legacyという著書)が指摘するのは、この部分ではないかと思われる。しかし、本書の中で紹介される文献は、確かに実在のものではあるらしいのだが、その記述の内容まで正確に引用されている保証はどこにもない。同様に、ウィキペディアに記された「『ブリタニカ』への引用」という伝説も、ほとんどの読者には確かめられることもなく、噂話として流通していくことになる。

 結果、同書は実在と虚構の境界を失ったまま、今日のインターネット環境の中でさえ、新たな神話や都市伝説を生み出しながら、いまだに生き続けているのである。

 

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