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【書評・ブックレビュー】 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス・ヴェーバー

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「資本主義」は中国にも、インドにも、バビロンにも、また古代にも中世にも存在した。しかし、後に見るように、そうした「資本主義」にはいま述べたような独自のエートスが欠けていたのだ。

 何のために必要かを問わず、就職して勤労して蓄財することを当然と見なす意識は、最近の日本では退潮しつつある。ベーシック・インカムが導入されたり議論されたりする国も多いことを考えると、ある程度は先進諸国に共通する時代の流れと言えるかもしれない。

 では逆に、そうした意識がこれほどまでに普及した、その発端は何であったのか。こうした根本的なことを問う精神は、与えられた環境を「当たり前」と見なす人からは決して生じ得ない。時代や社会ごとの「所与」を疑うことで、人は初めて自らの置かれた立場を理解し、それを考えたり変えたりすることができる。 

 

お金は楽しみのためじゃない?

 本書は20世紀初頭に書かれた社会学の古典である。今日の日本でも、大学の社会学科などでは、エミール・デュルケームの『自殺論』と並んで、非常によく読まれている。

 プロテスタントの市民の方がカトリックの市民よりも良く働き、多く稼ぎ、新しい労働に進んで就くという事実からスタートし、当時の欧米で既に当然のものとなっていた資本主義的な生活態度に対して宗教が果たした作用を考察した。その結果、プロテスタンティズムが近代資本主義の発達に対して親和性を持っていたのは、その教義が利潤の追求を含めて現世における快楽をより多く肯定するからではなく、むしろカトリシズム以上に厳格な信仰と禁欲を求めたからであることが明らかになった。

 プロテスタンティズム、とりわけカルヴァン派の教義では、信徒が最後の審判で救済されるか否かは、信徒自身の行動の善悪とは関係ないとされている。あらかじめ神によって破滅に定められた者は、どれほどの善行を積もうと最後の審判では必ず破滅するし、あらかじめ神によって救済に定められた者は、どれほどの悪行を重ねても最後の審判では必ず救済されるというのだ。このことは、自分が救済に定められているかどうかについて、信徒たち1人1人に不安と緊張とをもたらした。そこから、もしも自分が神に選ばれた人間であるならば、必ず神の意志にかなった行動ができるはずだとする考え方が生じた。それで、人々は自らの救済の確信を得るべく、神から与えられた使命としての職業に打ち込み、その成功をもって最後の審判での救済の証拠とする態度を身につけたのである。

 その後、禁欲的な労働と蓄財を支えた宗教的な情熱は失われ、働いて稼ぐこと自体が目的となっていった。それは今の我々の社会では当たり前のものであり、我々は好むと好まざるとにかかわらず、その中で生きなければならないようになっている。

 

 

今日の状況ーー様々な誤読と誤解

 本書は今日もなお社会学の必読書だが、同時に、本書が既に有効性を失っているという批判も、実に多く見受けられる。しかし不幸なことに、それらの批判の多くが単純な誤読・誤解に基づくものであり、本書の意義は正当に評価されているとは言い難い。  例えば、「プロテスタンティズムが資本主義を作った(ゆえに、それ以前には資本主義は存在しなかった)」という誤読がある。これは冒頭に挙げた記述のとおり、まったくの誤解である。プロテスタンティズムが生み出したのは「資本主義のエートス」すなわち、近代の資本主義的な生活を支える、日常的・習慣的な道徳意識であり、決して「資本主義」そのものではない。

 その他に、「資本主義の発展のためにはプロテスタンティズムの倫理が必要である(ゆえに、プロテスタンティズムが根付いていない地域では資本主義が発展しない)」という誤読もある。既にプロテスタント諸国でも宗教的な禁欲が失われ、利潤追求自体が自己目的化して市民を束縛していることは、本書の中でヴェーバー自身が述べている。問題は、そうした独特の生活態度をもたらした原初の契機が何であったかである。

 これらの他に、ヴェーバー自身の資料・文献の扱いを批判するものもあるのだが、そうしたものは専門家にしか判断できないので、ここでは触れないこととする。問題は、本書が当時どのように新しく、今どのような意義を有するかである。

 

同時代の「当たり前」を疑うこと

 前節で述べたように、本書の対象は「資本主義」ではなく「資本主義の精神」の誕生である。つまりそれは、何かの目的のためにお金を稼ぐことではないし、欲望の赴くまま冒険的な商売をすることでもない。必要のいかんにかかわらず、禁欲的に労働し蓄財することを当然と見なす、我々自身の態度のことなのだ。

 通常、お金は何かの必要を満たすためのものと考えられている。このことからすれば、必要以上に労働し販売し蓄財する性向は、確かに合理的とは言えない。言われてみれば、そこに宗教的な情熱を連想するのも決して無理なことではないだろう。ヴェーバーの慧眼は、自分自身の周囲で当たり前に行われていた資本主義的な行動様式について「何かおかしい」と感じた、まさにそのことに尽きる。

 ところで、本書の末尾でヴェーバーは宗教的な情熱が失われた後に残された近代資本主義のシステムについて、幾つかの未来予想を試みている。詳しくは本書をご覧いただくとして、少なくともここで言えるのは、我々が見知らぬ過去から引き継いで知らぬ間に囚われてしまっている「鉄の檻」に気づく者だけが、自分たちの未来を適切に予想したり構想したりすることができるということだ。

 

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