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【書評・ブックレビュー】 『東京漂流』 藤原新也

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だけど、「はかない」「やるせない」という漠然とした感情は、その人類の「絶対善」に異論を唱えるほどの説得力を持たない。そのことが、またやるせないのであった。

 善行は、行うことも難しければ、考えることも難しい。実行する者も、よほど気をつけなければ、自己本位の偽善に転落してしまうし、それを指摘する側も、よほど気をつけなければ、ただの悪口になってしまう。それゆえ、本人の心構えなど度外視し、実際にどれだけ役に立ったかで評価しがちな風潮も、ある程度までは理解できる。「やらない善より、やる偽善」というわけだ。しかし、これは色々な部分で思考を停止した末の決断であることを、忘れてはならない。

 上記のような薄っぺらな功利主義に対し、きっと子供たちはあまりに批判を知らなすぎるし、大人たちはあまりに批判を差し控えすぎる。だから本書は、精神の若い人たちにこそ、一読を薦めたい。問題をイエスとノーで割り切れない、もしくは割り切るべきでない状況について、答えは出ないまでも正面から受け止めることを教えてくれるだろう。

 

正しいはずなのにやるせない

 写真家・藤原新也が1983年に著した伝説のエッセイ集『東京漂流』。高度成長が終わりを告げ、日本の家族は清潔と快適に満たされた小さな幸せへと没入を深めていく。そんな中で、崩れ去っていくものや覆い隠されているものを追い、時にそれらと寄り添いながら、現状に鋭い批判の眼差しを向ける。筆者の「嗅覚」とも言うべき観察眼の厳しさと、やるせなさを怒りよりも詩情に包む優しさが、並一通りの社会批評から一線を画した煌めきを本書に与えている。

 ここでは特に、「善行」をテーマにした「7、青天白日」という章を取り上げる。この章では、1982年の東京で筆者が体験した3つの出来事について述べている。日本国憲法の条文に「愛と平和と自由」というコピーを付け、美しい日本の写真を添えて出版された、ベストセラー『日本国憲法』(小学館、1982年)。知人の自宅に電話をかけて署名と賛助金を求める、「反核運動」の大衆化。明るい笑顔に満ちた家族らが、同じく明るい笑顔に満ちた家族らと談笑しながら、恵まれない子供たちのために繰り広げる「ファミリー募金」。  こうした異論の余地のない絶対的な善行に対して、筆者は反対しないまでも、どことなく「やるせない」という思いを隠すことができない。しかし、その捉えどころのない違和感は、彼らの掲げる絶対的な正義の前に、言葉を失ってしまう。

 

 

自己の救済を求めて

 藤原はまず、善行をする人々の意識の甘さを指摘する。施しをする側の意識が甘ければ、それはむしろ相手を殺す結果になりさえするのだと。殺すには至らないにせよ、自分の善行が一切の利己心を含まない純粋な利他行だと信じこむ未熟さ、そして、与えた側がむしろ救われているという感覚の欠如は、確かに批判されて良いだろう。

 だが、藤原の指摘は、単に意識の甘さを糾弾するには止まらない。なぜ、よりによって80年代日本の自己本位社会で、これほどまでに善行が多発するのか。この問いへの答えとして、高度成長の中で「性悪説」を生きなければならなかった人々の「良心への飢渇」「善行への飢渇」が持ち出される。すなわち、善行を施すことによって彼らが切実に願っていること、それはとりもなおさず、彼ら自身の救済であるという可能性だ。これまで物質的な価値の達成へと狂奔してきた人々は、それが達成されると今度は精神的な価値をも手に入れようとし始めた。そこで増殖し始めた、「文化」ならぬ「ブンカ」「カルチャー」といったようなものが、善行への衝動と結託して人々を駆り立てる。それが『日本国憲法』読本であり、反核運動である。ここまでは、日本の戦後史を踏まえた藤原自身の図式でスッキリと理解できる。

 

善行とカルチャーの結託

 この章の中で、起こっている出来事の奇妙さと、割り切れない自分のやるせなさを、最も強烈に示しているのは、最後の「ファミリー募金」の風景であろう。実際、明るい笑顔に満ちた幸福な家族の募金活動というのは奇妙な現象である。筆者も言うとおり、活動する人は何らかの問題(この場合は飢餓で死にゆく子供たち)を抱えているのだから、基本的には暗いはずなのだ。しかし彼らは、善行を積んでいるという快楽、社会から認められたという喜びに満たされ、底抜けに明るい。筆者が違和感を感じるのは、そこである。

 さきの図式になぞらえ、これらの家族が物質的成長と引き換えに置き去りにしてきた良心を贖うべく、自らの救済をかけて悲壮な覚悟で善行をしていると捉えることもできるかもしれない。しかしそれでは、いま目の前に現れている明るい笑顔と幸福な談笑の説明がつかない。ここを解釈するには、「良心への飢渇」よりはむしろ、「ブンカ」と善行の結託の方だろう。これは、今でも意義を有する指摘と言える。本当は深刻なはずの社会問題に対して、ファッションの形で自らの意識や関与を表明するような運動は、しばしば見かける。問題の重さに比べて意識と行動が軽すぎると思っても、あまり有効な批判が思いつかない。「実際に困っている人たちの役に立つなら良いんじゃないの?」「やらない善より、やる偽善!」それで全ては片付けられてしまう。

 

功利主義の風潮に抗して

 こうしたファッショナブルな善行に対して、藤原が指摘したのは、善行をする側の意識、すなわち、本当は自らの救済を希求しているということであった。これに対して、善行を受ける側への意識も、同時に考慮されるべきであろう。子供たちの飢餓を問題として意識したのなら、なぜそれほど明るく幸福でいられるのか。おまけに、違和感を感じた筆者がこの光景を写真に収めるべくカメラを取りに戻った、ちょうどその時に3時のオヤツの時間が訪れ、駅前広場は筆者の予感どおりモヌケのからだった。1日3食どころか1食すら危うい子供たちに思いを致しながら、きっかり3時にオヤツの時間だと言って引き上げられたものだろうか。

 実際に人の役に立つということ、それはそれで確かに1つの基準にはなるだろう。しかし、その善行をする自分自身への意識と、自分が施そうとしている相手への意識がなければ、その善行は単なるファッションか気まぐれに留まる。たとえファッションでも役立てば良いという風潮に抗し、両者を厳しく弁別し、底の浅い功利主義が隠蔽してしまう欺瞞を意識し告発しなければならない。あれから30年後の今でも、自分たちの生きる時代や社会の「当たり前」に違和感を抱き、それを突き詰める契機は無数にあるだろう。

 

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