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【書評・ブックレビュー】 『憤死』 綿矢りさ

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午後は昼寝と決まっていたから。

 人が大人へと成長していく過程には通過儀礼があり、それぞれの段階で欲求や衝動が満たされなかったり、葛藤が解消されなかったりすることで、その人固有の自我やコンプレックスが形成される。それらは、こだわりや嗜好となり、意識せずともその人の行動原理として働く。幼少期からのルールや習慣が大人になっても抜けないのはそのためであり、それが克服されたり昇華されたりすることで、人は精神的に成長していく。

 幼いころの記憶は曖昧で、あらゆることが新鮮で初めての経験であり、自我が形成される前までは、あらゆるものを受け入れたり、単純な衝動によって行動したりする。そんな中、「それはそういうものなのだ」と納得していったことが、大人になってから、ふとその真意に気づく瞬間が訪れるときがある。それは一体、どのように克服し、昇華されていくのだろうか。 

 

たった一つのフレーズが「物語」を「純文学」へと引き上げる

 大人になり、幼いころの現実の最古の記憶と最古の夢を回想していく中で気づいた真相が解き明かされることとなる「おとな」。 小学六年生の地蔵盆で、親父と呼ばれる男に自分の罪を懺悔したという奇妙な思い出が引き金となり、おとなになった〈おれ〉に当時の友達が告解する「トイレの懺悔」。 自殺未遂をした小中学校の女友達が入院していると噂に聞き、興味本位で見舞いに行き、そこで彼女の自殺の真相を知ることになる「憤死」。 友達と、ボードゲームの ”人生ゲーム” で遊んでいたときに突然姿を現した男が、彼らの将来の不幸を予言し、それが現実のものととなっていく人生を送った男の一生を描いた「人生ゲーム」。 綿矢りさの『憤死』は、これら四編からなる短編集である。

 2003年発売し、第130回芥川賞を受賞した『蹴りたい背中』の冒頭の一文、「寂しさは鳴る。」のように、印象的なフレーズが所々にあり、全体的には淡々と一人称で語られているが、たまに顕れるそのフレーズで一気に何かが揺さぶられ、物語の中へと引きこまれていくような不思議な魅力が彼女の文章にはある。 巻頭の「おとな」は、たった5ページのショートショートだが、物語の内容的には無くても問題のない彼女のたった一つのフレーズが、身震いするほどの恐怖を読者に植え付ける。

 

 「ねえ、おぼえていますよ。ほかのどんなことは忘れても、おぼえていますよ。」

 

 

「信仰」が抜けた慣習に残るもの

 「トイレの懺悔」では、親父と言われる各地方の近所には必ずいるであろう得体のしれない「親父」と呼ばれる男が、地蔵盆という縁日で主人公とその友人たちを誘い出し、その男の家のトイレを懺悔室にみたて、その子たちにキリスト教における「懺悔(告解)」をさせるというエピソードから始まる。 近畿地方で毎年8月23・24日頃に催される「地蔵盆」は、子どもの成長や幸福を願うために、地蔵菩薩を祀る恒例行事であるが、子どもたちは縁日で配られるお菓子が目当てで、「数珠繰り」と呼ばれる玉が大きく長い数珠をまわすという儀式は、今では元来の意味は抜け落ちて、ただそれを行うことが地蔵盆の恒例行事となっているだけである。

 「親父」は、「ウソをついたり隠したりすると、穢れたまま大人になり、いずれ地獄へ行くのだ」と言い、小学六年生になる子どもたちに「懺悔」することを提案し、一人ずつ「親父」に彼らが犯した些細な罪を告白していく。おそらくは誰も「地獄へ行く」などということは信じていなかったし、「親父」にはそれ以外の目的があったかもしれない。しかし、この儀式は、「罪を告白する側」と「告白を聞く側」という心理的な対立構造を生み、心理的な人と人との関係性を定義する。「信仰」や「儀式・慣習」は、一種の秩序であったが、それで保たれていた人間関係や社会性はもはや現代では機能せず、人間の心理を巧みに利用しようとする者が優位に事をすすめていくことができる。特にそれが、子どもの人生を変えるような出来事になりかねないという状況は、恐怖以外のなにものでもない。 「トイレの懺悔」では、この心理的支配が更に深刻な事態を招いていく。

 

人は「憤り」で死ねるか

 子供は純真無垢だからこそ、何かを過剰に行ったりすることがあるが、そういった性質を持ったまま大人になってしまった人も多い。周りが見えなくなるくらい、自分の欲求をストレートに表現し、それについて前向きでいられることは、成長の変わりに身につけた生存本能なのかもしれない。そういう人を見ると、どんなに深刻なことも笑えてくるし、少しうらやましく感じることもある。

 実際に「憤死」とはどのようなものなのか、ということを考えながら、友人の自殺の理由を聞いている〈私〉。歴史上で「憤死」した人物は結構いるようだが、彼らと同じくらいの何かを、その友人も持ち合わせているのかもしれない。

 自分が深刻に考えているほど他人はそれほど気にしていないように、自己評価と他者承認は異なる場合が多いし、自分の人生を変えるような一歩を踏み出せば、今までの陰惨な出来事も滑稽に思えるようなことも多い。午後は昼寝と決めたのは誰なのか。それが夢なのか現実なのかを “決めている” のは「現在の自分」以外にはいない。

 

綿矢りさ『憤死』の関連書籍

「紙の書籍」はこちら

 

「電子書籍(Kindle版)」はこちら

 

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