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【書評・ブックレビュー】 『トロッコ』 芥川龍之介

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塵労につかれた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある道が細細と一すじ断続している。

 フランスの哲学者ジャネーによれば、「主観的に記憶される年月の長さは、年齢の逆数に比例する」という。子供のころの2週間ほどの体験は、当時の色彩が失われてもなお、その後の生涯において象徴的な意味を持つことがある。色が失われても、感情は残る。明確な引き金もなくふと思い出されるその記憶は、「今」と「これから」を暗示しているのかもしれない。

二十六になる男の回想と覚悟

 二十六の年に妻子とともに東京で出てきて、ある雑誌社の校正の仕事をしている良平が回想している彼の子供時代のエピソードから話は始まる。

 八つの年になった良平は、小田原熱海間の軽便鉄道敷設工事の現場にあったトロッコに興味を示した。ある日、良平は一人で、親しみ易そうな二人の若い男とともに、枕木を積んだトロッコを押していった。変わりゆく線路沿いの景色に感情を揺さぶられ、途中でもう帰りたいと思いながらも、かなり遠くまで来てしまった。とうとうそこで二人の男と別れ、いま来た路を一人で歩いて帰らなければならなくなった。途中、邪魔になる菓子包みや板草履、羽織までも道端に捨てながら無我夢中で線路の側を走り続けた。次第にあたりが暗くなり、心細さに打ちひしがれながらも、家までは泣かずに駈け続けた。ようやく家の門口へ駆け込んだときには、良平はその理由も言わずに泣き続けることしかできなかった。

 芥川龍之介のファンであった力石平蔵がこの『トロッコ』の原案を提供したといわれているが、遅筆家として有名な芥川はこの小説をたった一日で書き上げた。

 全体の構成はシンプルに起承転結であるが、一字も無駄のない簡潔な描写を、室生犀星もそれを名文であると絶賛した。

 

描かれていない「二人の男」の感情

 トロッコが進んでいくにつれて変わる景色ごとに揺れ動く良平の感情とは対照的に、良平を引き連れていく「二人の男」の感情を表す描写はまったく無い。二人の男は良平に、トロッコを押してとも押すなとも言わず、良平が「もう押さなくとも好い」と言われるかもしれないという気がかりから、「何時までも押していて好い?」と尋ねたり、「好いとも」と返事されれば、「優しい人たちだ」と思ったりと、良平の揺さぶられる心が彼の行動を推し進めている。下り坂になれば、「押すよりも乗るほうがずっと好い」と先ほどとは真逆のことを考えたり、「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」とも考えたりもした。実に子供らしく、いま目の当たりにしているものから受ける感情のまま考え、行動していく。

 竹藪のあるところから雑木林を抜け上り坂を登り切ると、高い崖の向こうに広々と海が開けたと同時に、余りにも遠くに来すぎたという現実を目の当たりにし、二人の男に「もう帰ってくれれば好い」と不安を抱く。良平が、「もう日が暮れる」と居ても立ってもいられなくなったころ、二人の男は良平に、もう家に帰るようにと告げた。わかっていたことが現実となるこの瞬間、良平は、泣いても仕方がなく、泣いている場合でもないと思った。この時が、彼が現実を受け入れ、覚悟を決めた瞬間であると思った。

 

今とこれから

 二人の男がトロッコに枕木を積み本線になるはずの太い線路を登ってきたという部分が、幼い彼にとっての未知の人生を象徴しているかのようである。それに好奇心のまま飛びつき、引き返せるギリギリの場所まで行った。泣かないと覚悟して走る中で、自分の持ち物を捨てていったという行為は、幼い彼にとって、大人になるための一つの通過儀礼だったのかもしれない。そして、二十六になった彼は、妻子を持ち、塵労にまみれながらも、定職を持ち、覚悟を持っているのかもしれない。もう戻ることはできず、これから先もその記憶を断続的に思い出すことになるのだろう。

 

あらすじでは描かれない部分

 この物語が名文であるというのは、この物語のあらすじを見ればよく分かる。プロットや因果関係を追うだけでは、この物語の何も掴み取ることはできないだろう。芥川龍之介が書いているのはまさに、プロットの奥行きであり、この物語が、二十六の良平が子供の頃のエピソードを回想しているという形式をとっていることで、その描写の効果は最大化される。色彩が薄れてもなお記憶に残っている感情だからこそ、その感覚がありありと伝わってくる。

 

参考サイト:

芥川龍之介の小説「トロッコ」の基礎的研究 ー素材提供者・力石平蔵をめぐってー

 

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