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【書評・ブックレビュー】 『きつねのはなし』 森見登美彦

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この夏、死に向かって歩みながら、祖父は何を飲み続けたか。水だ。

 人は通常、相手を理解しようとするときには、その人の行動や言動の端々にその人の人物像を見出そうとする。そうして積み上げられたイメージは、見る人の想像力の範囲において無限に拡大されていく。人が他人を理解したいという衝動は、人が安心を求めているからなのかもしれない。そうして得た束の間の安心の中にその相手が別の表情を覗かせた瞬間に、今まで築きあげてきた安心の中の秩序は崩れていき、不穏な恐怖心が芽生える。また、人は時に、その人が置かれている環境や状況、他人が持つ印象や関係性によって作り上げられてしまう場合もある。

 卵が先か鶏が先か。洗脳か、欲求か、陶酔か、憑りつきか。  現実か幻覚かも定かではない感覚に酔い、その酔いを覚まそうと飲む水に溺れていく。 人の存在は、一本の蝋燭の火に照らされ浮かび上がる景と幻の間ほどのものなのかもしれない。 

 

京都に漂う奇怪さの影

 森見登美彦の『きつねのはなし』は、表題作の「きつねのはなし」を含め、「果実の中の龍」「魔」「水神」の四話を収めた短編集である。いずれも京都を舞台とし、大学生が各物語の語り手となっていて、「芳蓮堂」 という骨董屋と「胴の長いけもの」が登場する。それぞれに共通した登場人物や場所などが出てくるが、内容はそれぞれ独立したものとなっている。それぞれの登場人物の周りで噂される化け物の影は、彼らの日常に潜み、その姿をとらえたかと思えば、また消えていく。登場人物の記憶と、その場の光、音、匂いなどの描写が、読者の想像力に拍車をかける。

 

恐怖の根源

 人が感じる恐怖には、未知のものに対する恐怖という種類のものがある。心霊現象や奇怪な出来事について、人は常にそれを理性的に説明しようしてきたが、それを論理的に説明しようとすればするほど、その不透明度は増すばかりで、更なる未知が生まれていく。

 人の行動に対しても同様に、他者が理解に苦しむような行動をとるときに、ほとんどの人は相手がとった行動自体よりも、その行動の理由を探る。人は常に理性的な行動をとるとは限らない。「なぜ人はそのような行動をとってしまうのか」という問いに対して、その答えは、答える側の想像力に委ねられてしまう。そうして想像が巡らされた時間に比例して、未知の恐怖が次第に顔を覗かせる。

 この『きつねのはなし』は、その理由の部分を徹底的に隠すことで、物語の登場人物を通して未知の恐怖が読者に想像力に委ねられ、何か言い知れない不気味さや奇怪さを読者に伝えている。

 

通り魔が誕生するまで

 この物語の一つ、「魔」の中で、煙草屋の婆さんが、「通り魔」 が出だした頃に「魔が通る」と言い、婆さんが夜な夜な人を襲っているものは人間ではないと言った、という描写がある。「通り悪魔」というのは日本の妖怪で、「通り魔」の語源になっている。 人が何かに取り憑かれて通り魔へと変貌したのか、人が通り魔になっていく過程で何かに取り憑かれてしまったのか。どちらが先かは分からないが、人が、人から “通り魔” へと変貌してしまう一線を超える恐怖が、この物語全体から、感覚的に伝わってくる。

 

怪しさが美しい

 あからさまにホラーとも言えない、かと言って、明確な結末があるわけでもなく、何か不思議な感覚にさせられるよくわからない物語というのが、この物語の大方の感想であるように思われる。 実際に、四つの物語は、厳密にどのように関連しているのかも曖昧であるし、時系列も明確には分析できない。はじめに、「きつねのはなし」だけを読んでレビューを書こうと思ったが、書くことができず、次の話を読んでいくと、再び「芳蓮堂」が登場し「胴の長いけもの」が出てきたので、全体を読み通してからレビューを書くことにした。この物語は、ただ「何とも言えない不思議な話」と言ってしまうには勿体無い美しさがある。それは、「水神」で祖父が死ぬまで「酔い覚めの水」を飲み続けた感覚に近いのかもしれない。

 

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