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【書評・ブックレビュー】 『刺青』 谷崎潤一郎

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其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。

 いつの世も、いにしえの世に憧れを抱いている。より健康で、より賢明で、よりも寛容な、失われた人間本来の有様が、そこにはあった・・・・・・。実際、そんな理想郷はいつの時代にも存在しなかったが、それでいて、いつの時代にも戻るべき場所として求められ続けた。

 しかし、そこで我々が失った(とされる)ものは「健」「賢」「寛」ばかりではない。採算を度外視して美を追求し、これに殉じることさえ時には求める「愚」。その病的な情熱もまた、我々が置き忘れてきた彼の地で、いつか我々が取り戻すべきものとして呼びかけ続けている。 

 

谷崎の衝撃的デビュー作

 1911年(明治44年)に発表された、谷崎潤一郎の短編である。実質的にデビュー作であり、永井荷風が本作を賞賛したことにより、谷崎は文壇に招き入れられている。

 自らを魅了する美しい肌にしか施術を許さず、客が施術の痛みに耐えかねて呻吟する様を快楽とする、腕利きの刺青師・清吉。彼には、いつか最高の美女の肌を得て、その上に自らの魂を彫り込むという宿願があった。初夏のある日、彼は道ゆく駕籠から覗く女の足に魅了されるが、必死の追跡も空しく見失ってしまう。

 翌年の晩春、使いでやってきた少女を、清吉は昨年の駕籠の女と確信する。彼女を招き入れた清吉は、2枚の絵を差し出した。男たちの絶えゆく命を吸い上げて、いよいよ美しく光り輝く悪魔のような女たち。怯えてすぐにでも帰ろうとする少女を麻酔で眠らせ、その背に巨大な女郎蜘蛛を彫り上げた。

 魂の全てを刺青に注ぎ込み虚になった清吉とは対照的に、蜘蛛を背負った女は昨日までの怯えた様子とは打って変わって・・・・・・。

 

ファム・ファタール幻想

 谷崎の小説では、男が妖しく美しい悪女の魅力に捕らわれて、やがて自ら進んでこれに服従するというテーマが何度も繰り返されている。しかも、その女が男を踏みつける、美しい足の裏への執着を隠そうともしない。マゾヒズムともフェティシズムとも称される所以である。その萌芽は既に本作において存分に覗いている。曰く、「この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であった。」

 刺青師の清吉は、彼がその視覚で舐めるように感知した足の裏の感触だけを頼りに、彼のシンデレラを恋い続けるのである。再び2人が出会った時、幼くして既に幾人もの男の命を吸い上げてきたかのような禍々しい美しさに、彼は宿命を直感し、有無を言わさず思いを遂げる。果たして彼女は彼が望んだとおりの女であり、彼は望みどおりに女の肥やしとなって果てる。

 麻酔を嗅がせる前、清吉が少女に悪魔のような女たちの絵を見せて、自分の中に彼女らと同じ欲望が眠っていることを、半ば無理やり認めさせる場面がある。少女は酷く怯え、清吉に絵をしまってくれと懇願し、怖いので直ぐに帰らせてくれと哀願した。少女が怯えた理由は、絵が怖かったからでも、清吉の態度が怖かったからでもない。それらの絵を見ることで、また清吉と共にいることで、自分の内面に潜む何かが引き出されてしまうことを確かに感じ取ったからであった。

 こういう、男を破滅させて輝く女のことを、フランス語で「ファム・ファタール(宿命の女)」と言い、古今東西の様々な芸術で繰り返しモチーフとされていることは有名である。フェミニズム文芸批評などの方面では、男のロマンを女に押し付けていると批判されることも多いと聞くが、損得勘定や善悪の判断を離れて圧倒的な美や快に埋没したいという欲望は、男だけのものではない。クリシュナやアドニスの神話さえ、このことを示している。

 

届かぬが故の「愚」の普遍性

 谷崎は、前期には『痴人の愛』を頂点とするモダンな風俗を交えた作風で知られ、後期には『細雪』を頂点とする日本の伝統美に回帰した作風で知られた。しかし、モダンかレトロかの区別は、彼においては重要な違いではない。本作に見るように、既にデビュー作にして舞台は江戸である。彼は同時期に同様のテーマを持つ短編を幾つも書いているが、その舞台は江戸だけではなく、現代(明治末期〜大正初期)の東京や、時には古代・近世の中国さえ用いられる。おそらく、時代と地域とを超えて、彼が追求した官能的唯美主義の理想にかなう世界を、一貫して求め続けたのではないか。その点では、『痴人の愛』のモダン東京も、『細雪』のレトロ日本も、大した違いではない。

 自らの信じる美と官能を、時代も地域も異なる様々な舞台で展開させたという点で、彼の美意識は明らかに普遍性を志向している。江戸にしかなかった情熱や、日本人にしか分からない美ではなく、いつでもどこでも人を捕らえて狂わせる可能性のあるもの、それが「愚」である。

 しかし、なぜだろう。冒頭に挙げた文句は本作の書き出しの1文であるが、ここで作者は明確に自らの視点を現代に置き、古い時代には今や失われてしまった「愚」の美徳があったと讃える。そこでの「愚」の内容は、愉快さを愛し美しさを讃えるということで、そうした人々の情熱の中に、主人公が生業とする刺青も位置することになっている。このことは、彼の信ずる「愚」の普遍性を損なうことになってはいないだろうか。

 実は、現代では既に失われてしまっているという、この感覚こそが、「愚」を一層「愚」たらしめるものなのである。なぜなら、いつの世にも求められ、なおかつ、いつの世にも自分がそこから遠ざけられている、いつかは帰らなければならないはずの、届かぬ理想こそが「愚」なのだから。

 

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