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【書評・ブックレビュー】 『藪の中』 芥川龍之介

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おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、瞋恚に燃えなかったためしはない。

 物語は、一つの側面からのみ語られるからこそその切実さが際立つが、別の視点から語られることでまったく別の様相を呈する場合もある。起こった出来事はただ一つであるが、そのただ一つの事実が意味するものはそこに関わった人の数だけあり、また、同じ数だけ物語も存在する。こうやって事実は、個人のフィルターを通して歪曲していき、やがて、その歪曲された物語が事実となっていく。たとえそれが本当の事実とは違っていようとも。 

真相は闇の中

 山科の駅路から四五町ほど隔たった人気のない山陰の藪の中に、男の死骸が発見された。その死骸について、検非違使(平安時代の警察)が、木樵り、旅法師、放免(検非違使の下部)、媼へと事情聴取をしていき、事件の概要が浮き彫りになっていく。彼らの証言によると、多襄丸という盗人がある夫婦の妻を奪うために彼らをだまし、男を殺したという事件であった。そして、物語の後半に、「多襄丸の白状」「清水寺に来れる女の懺悔」「巫女の口を借りたる死霊の物語」と彼ら三人のそれぞれの証言がなされ、それぞれの事件の真相が語られていく。

 

眼の光にあてられて

 この物語は、結論が明確に描かれていない。したがって、読者がそれぞれ結末を想像することに自由さがあるように思われるが、それは少し違うように思う。この物語の結末は多様な解釈が可能なのではなく、多襄丸、女、男の三人それぞれが描写した結末がすべて事実であるというのが正しいように思われる。

 この三人のそれぞれに見た物語は、眼によって動かされていく。多襄丸が見た女の顔、殊にその一瞬間の燃えるような瞳が多襄丸を決心させた。女が見た夫の眼には、何とも云いようのない輝きが宿っていて、その刹那に男は彼の一切の心を伝えた。男が何度も妻へと目配せをしたが、妻の目は、膝からうっとりと盗人へと向けられていた。

 三者が三様に相手の眼の中に見た感情は、それが理性的な判断ができない状況での誤解や陶酔であったとしても、彼らそれぞれにとっての事実を作り上げてしまうほどの力をもつ。そしてその事件の真相は、外界から隔離された三人だけの藪の中で、闇の中へと深く沈んでしまった。

 

 

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