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【書評・ブックレビュー】 『すみれの君』 アルフレート・ポルガー(『ウィーン世紀末文学選』『心にのこった話』所収)

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貴族には果たすべき義務があるのです。たとえこの悲しむべき共和国には見捨てられた種族だとしてもーー

 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)。フランス語で「高貴さは強制する」、すなわち、高貴な者は相応の振る舞いを強いられるということを示す文句である。彼らは好き好んで気取っているのではない。自らの高貴さによって、高貴な振る舞いを「強いられている」のだ。そして、世の中から高貴さが失われゆく時にこそ、この規範に従った振る舞いが最も鮮烈に輝くという事実は、何とも皮肉なものと言えるだろう。

時代遅れの貴族精神

 主人公、ルドルフ・フォン・シュティルツ伯爵は、今や滅びつつある生粋の騎士であっった。態度や仕草もさることながら、社交を心から愛し、糸目をつけずに金をつぎ込む豪放な性格で、常に人気の的であった。そんな彼は、今度のトランプ勝負でも大負けに負け、24時間以内の支払いは絶望的だった。勝負の相手は猶予を申し出たが、伯爵は「名誉に関わることだから」と、友人の名で借金をして、見事に支払いを果たした。  この時の借金は伯爵自身の手に負えず、返済は結局、彼が名を借りた友人に頼ることになった。この時、友人が渋い顔をしたのが、伯爵には納得いかない。いやしくも騎士たる者、同じ軍旗の下の仲間が窮状にあれば、それを助けて当然ではないか。しかし時代は、伯爵のこうした思いとは反対の方向へ進んで行く。伯爵は借金に借金を重ね、ついには誰からも金を借りられなくなり、トランプの席も拒まれる。

 第一次大戦後、帝国は崩壊し貴族は廃止されるが、伯爵は貴族としての身なりと振る舞いを決して手放さず、なんとか社交界の末端にしがみついて暮らしていた。ただし、かつて華やかな交流を持った女友達などには決して近づこうとしなかった。みじめな有様を彼女たちの目に晒すのは、彼の矜持が許さなかった。

 そんなある日、かつての女友達であるベッティーナが訪れた。彼女は切実な悩みを抱えていた。彼女には結婚を約束した人があり、子供まで身ごもっていたのだが、その婚約者は結婚を前に事故で亡くなってしまう。このまま子供が生まれたら私生児の烙印を押されてしまうことになり、それは大変不名誉なこととされていた。そこで、ほんの一時だけ結婚して、子供に嫡出の認定を与えられるようにしてほしいというのだ。

 伯爵はこの申し出を快諾し、婚姻を知らせる手紙や封筒や花束など、とにかく貴族としての婚礼にふさわしいものとなるよう奔走した。しかし、この晴れの舞台に見合うだけの豪華な結婚指輪を調達する名案だけは、どうしても思い浮かばなかった。このことで目に見えて憔悴してきた伯爵は、ついにある決断を下す。

 

気高さと倫理観

 没落貴族が時代の流れに取り残され、それでも精神の気高さだけは保とうと志す作品は、いくつか知られている。例えば、太宰治の小説『斜陽』やルキノ・ヴィスコンティの映画「山猫」などは、そういうものとして捉えることもできるだろう。彼らの高貴な精神が反逆する相手は「卑俗」ということであり、時代は一層その「卑俗」の側へ加担の度を加えながら、彼らの無力な抵抗を滅びの中へと押し流していく。

 本作の主人公が無駄な抵抗を続ける相手もまた「卑俗」ということである。しかし、ここで問題となっているのは、その大部分が「金」ないし「財産」に関することである。

 トランプ勝負の後で伯爵は、自身の名誉に関わる24時間以内の支払いだけは万難を排して完遂するが、その支払いのために友人の名を勝手に借り、負債を友人に背負わせることは、特に何とも思っていない。それどころか、彼がそれを引き受けるに際して見せた渋い顔を承服しないというのは、今の我々の倫理観からすれば理解できないものである。おそらくは、当時の基準に照らしても許されることではあるまい。実際、作中でも、このバランスの悪さは「二重の性格」として語られている。曰く、「みじめさと高貴さ、卑しさと気高さには厳しかったが、正と不正とは曖昧だった。」

 さらに、物語の終盤で、伯爵は自分の果たさなければならない義務に対して金が足りないばかりに、ある犯罪を犯している。その時も彼は、悪びれることなく、冒頭の文句を述べる。曰く、「貴族には果たすべき義務があるのです。たとえこの悲しむべき共和国には見捨てられた種族だとしてもーー」  どうみても私有財産権についての常識的な倫理観の欠落したこの人物に、古い時代の失われゆく気高さを背負わせたのは、果たしてなぜだろうか。それはおそらく、資本主義における倫理の根本にある「等価交換」と、騎士道精神における倫理の根本にある「無償の蕩尽」ということが、最も鮮やかな対比を見せていたからではあるまいか。

 貴族にとって、有用性の範囲に属さない決闘や色事や博打などに命を注ぐことは、いわば義務のようなものである。自身の名誉や誇りのためであれば、あるいは社交の場を楽しませ、悩めるご婦人を救うためであれば、金や命に糸目をつけてはならないのである。

 もちろん、「太っ腹」とか「金払いが良い」というのは、今日でも「器が大きい」人として尊敬はされるだろう。しかし、本作の場合は、この高貴さの強制する義務が、他人の私有財産権を侵してしまうような状況を設定することで、余計にその純粋さを際立たせ、それが以後の世の中では受け入れられることのないことを、痛みとともに読者に伝えることに成功している。

 

受け継がれる高貴な精神

 こう言ったからといって、別に資本主義の倫理と騎士道の倫理とを比較して、どちらが優れているとか劣っているなどと言うつもりは一切ない。ただ、自分の時代、自分の社会のそれとは違った倫理が、別の条件のものでならありうることを、我々は常に意識しておかなければならない。なぜなら、今のこの条件が揺らぐことなどいくらでもありうるし、それが日々揺らいでいるからこそ、少なくともどこかには、古い時代の美徳が受け継がれ、時に顔を出すこともあるからだ。

 今日の倫理は世界中の多くの地域で、「等価交換」という資本主義のそれによって規定され、それに従わない者は犯罪者と見なされるだろう。しかし、人間の人生を総体として眺めると、それでは決着のつかない部分がいくつもある。払い切れない負債や償いきれない過失、報いきれない恩誼や許しきれない怨恨、そうしたものの記憶が全くない者などいるだろうか。そして、そういう部分に接した時の振る舞いにこそ、しばしば気高さや美しさは現れる。つまり、時代遅れの精神は、今日も何らかの形で、我々の社会に受け継がれているはずなのである。

 実際のところ、伯爵による最後の犯罪で被害を受けていながら、ベッティーナはどのような態度をとっただろうか。彼女は彼の騎士道精神、自らを省みぬ無償の奉仕に心から感服し、犯罪者となった彼のために最大の便宜を図った。それどころか、これからの時代を生きてゆく我が子に「Veilchen(すみれ)」と名付けたのである。失われゆく美徳を命懸けて体現していた、そんな彼の仇名になぞらえて。

 

 

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