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【書評・ブックレビュー】 『どくろ杯』 金子光晴

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できれば、妻をその恋人からひきはなすための囮にかけたパリまでのこの先の旅など、手つけながれにして、忘却の時間をかけてなんとか立直るまで、この上海の灰汁だまりのなかにつかっていてもいいとおもった。

 戦前の日本人にとって、海外経験は意外にありふれたものだったのかもしれない。海外旅行は現在とは比べものにならぬほど困難であったが、移民や出稼ぎなどの長期滞在・永住の経験については随所で耳にする。世界各地で日本人のコミュニティが組織され、独自のネットワークを築いてもいたらしい。そして、それらの点と線を結ぶようにして行きつ戻りつしている人々の中に、彼ら「ごろつき」がいたのである。

出たとこ勝負の旅

 本書は詩人・画家である金子光晴による自伝3部作の第1巻である。奇妙な夫婦の旅は7年間に及び、第2巻『ねむれ巴里』、第3巻『西ひがし』へと続いていく。

 筆者と妻は、なんとなく一緒になって、好きだとか気が合うというのではなく、単に離れることのできない不思議な関係であった。骨がらみとも共倒れとも、あるいは宿命とも言えるだろうか。お互い他に好きな人が出来たら干渉しない取り決めではあったが、実際、妻に恋人が出来てみると、夫としては色々と思うところもある。そこで、妻との関係を見つめ直すべく、ともにパリへ行くことを提案する。

 とはいえ、パリへ行くだけの金もないので、大阪なり上海なりで長期滞在して良い加減な手段で金を作りながらパリを目指すことになった。妻の方は、長崎に置いてきた子供のこと、東京に残してきた恋人のこと、そしてまだ見ぬパリのことなど、様々に思い乱れているようである。夫はそんな妻と自分との関係を持て余しながら、その他でも様々に傷つき疲れながら、当時の上海の混沌のなかに、いつまでも浸かっていて良いと思うようになる。

 

社会から外れた者の世界

 旅は1928年に始まったが、自伝の執筆・連載が始まったのは1969年のことである。この40年間の隔たりのうちに、彼ら2人の旅は、彼ら夫婦とその周辺の個人的な事情を超えて、当時の日本社会、ひいては世界情勢の全体とさえ関わるものとして捉えられるようになっていた。そのことは、記述が1923年の関東大震災から始まっていることからも明らかである。

 震災が明らかにしたものは、明治以来の日本が築いてきたはずのものの不確かさ、そして、それまでの大正リベラリズムの終焉、来たるべき停滞性と閉塞感との予兆であった。とすれば、日本で食い詰め傷ついて旅に出た彼が上海に求めたものといえば、塞いだ心を開放し行き詰まった事態を打開してくれる何かであったはずだ。にもかかわらず、彼はすべての面倒を置き去りにして、インチキな商売でも何となく食ってはいける、当時の上海に身を委ねようとした。それはなぜか。

 本書から読み取れる理由は、無政府的であるがゆえに食い詰め者や余計者を排除しない上海の優しさである。筆者自身は間違いなく、上海で良い加減な金を作って自堕落に暮らしている現状を嫌悪しているのだが、それと同時に、今の自分がそういうところでしか生きられず受け入れられないことをも感じている。このことを意識すればこそ、彼は作中に登場する様々な俗物を嫌いながら、究極的には否定せず、その感傷に共感さえ寄せている。  こうした者たちを受け入れて膨れ上がる上海の、いやらしくも優しい有り様を、筆者はこう伝えている。「いままでのような旅行者ではなく、生死をあずける別の心組みで飛びこんでゆく私たちに、上海は、疥癬で、かさぶたになった大きな胸をひろげている。」  八方塞がりの逃避行にも一抹の開放感があり、汚物にまみれた暮らしにも幾らかの気楽さがある。震災後の状況が当時と今とで全く同じとは言わないが、その社会から外れてしまった人々にも、そうした身の置きどころがあったことを、少し羨ましくも思う。(とはいえ、その無政府状況の気楽さが、少なくとも部分的には国家の暴力で作られていることを、今日ではより強く意識しなければならないだろう。)

 

自伝の面白さとは何か

 自伝が面白いと感じられる場合、その本の筆者自身が面白いということも理由にはなるだろうが、やはりその生涯を通じて、ある時代なり社会なりが生き生きと伝えられているということが、より大きな理由になるだろう。残念ながら金子光晴の詩や小説は、現在まで広く読み継がれているとは言えず、遺された絵画もあまり注目されてはいない。にもかかわらず、この自伝3部作だけが今日まで刊行され続けているのは、それが筆者本人への関心に応えるからではなく、自伝自体としての表現に成功しているからであるはずだ。そして、その自伝が伝える世界の中に、今ここにいる自分と同様に傷つき疲れている人間の姿を見出した時、それを読む側もまた、その世界の中を生きることができるのである。

 

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