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【書評・ブックレビュー】 『冬の蝿』 梶井基次郎

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私は日を浴びていても、否、日を浴びるときはことに、太陽を憎むことばかり考えていた。

憎悪と憂鬱

 むき出しの敵意を向けてくる相手よりも、優しく温かいなりをした相手、それでいて終いには自分を陥れるであろうその相手を、我々は一層深く憎むことがある。しかし、そもそも表情や態度すら読み取れない相手には、漠然とした恐怖と底なしの無力感とをもって接するより他にない。

気紛れの帰結

 本作の書き手であり主人公でもある「私」は、病を得て谷間の温泉に療養し、2度目の冬を過ごしていた。日光浴のために窓を開けていると、その日なたの中に弱り切った蝿たちが集まってくる。彼らは殆ど死にかけていながら、それでも「生きんとする意志」を失うことは決してない。他方「私」は、ほんのいっとき心と体を和ませておいて、結局は「私」を助けないであろう太陽を憎んでいた。そして、出来ることならその温もりを引きちぎって、自分を殺すであろう酷寒の中に身を晒したいと願っていた。

詳しい事情は省略するが、ある日のこと、「私」はほんの気紛れから、かねてよりの思いを実行に移してしまった。自らを傷つけるようにして酷寒の山中を歩き、ふと辿り着いた海辺の温泉に、これもまた全くの気紛れで、3日ほど滞在してしまった。すると・・・・・・

 

運命の手触り

 人はしばしば、「運命に弄ばれる」という言い方をする。しかし、これほどまでに生々しく、「運命」が気紛れに自らを弄ぶ手つきを感じることがあるだろうか。「私」の生死が、どうにもならない何か大きなものの手の内にあり、「私」は「そいつ」の気紛れを知ることすらできずにいる。遠からぬ「死」へ定められていること自体は変わらず、恐れることこそ何もないのかもしれないが、その感覚が不快であり、それ以上に不気味であることは十分に納得できる。

 

抵抗はできない

 それでは、「私」をますます憂鬱にさせる「そいつ」とは、一体何物であろうか。物語の冒頭で「私」が激しく憎んでいた、いっとき喜ばせておいて結局は助けない、あの太陽であろうか。おそらく、そうではない。「そいつ」が太陽であるならば「太陽」と名指しするはずである。蝿たちは、「私」の気紛れと偶然の連鎖から、一時は恩恵を受け、後に生命を奪われながら、最後まで「私」の存在とその作用とを認識していない。「私」にとっての「そいつ」も、これと同様に、「私」にとっては認識しえない何物かであるはずだ。

 太陽や酷寒や病気といった、実際目に見えて「私」を殺すであろうものたちでないとすれば、「そいつ」の正体は、もはや「運命」としか呼びえぬものであろう。とはいえ、それが神のような人間を超えた意志を持つ主体ではないことは、「私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件」と述べていることから明らかである。そしてこれは、超越的な主体の確固たる意志ではなく、気紛れな条件の連鎖に過ぎないという点で、より一層やるせなく、かつ抗いがたく感じられるのである。

 

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