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2016年 3月 の投稿一覧

【書評・ブックレビュー】 『刺青』 谷崎潤一郎

其れはまだ人々が「愚」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。

 いつの世も、いにしえの世に憧れを抱いている。より健康で、より賢明で、よりも寛容な、失われた人間本来の有様が、そこにはあった・・・・・・。実際、そんな理想郷はいつの時代にも存在しなかったが、それでいて、いつの時代にも戻るべき場所として求められ続けた。

 しかし、そこで我々が失った(とされる)ものは「健」「賢」「寛」ばかりではない。 続きを読む

【書評・ブックレビュー】 『藪の中』 芥川龍之介

おれは中有に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、瞋恚に燃えなかったためしはない。

 物語は、一つの側面からのみ語られるからこそその切実さが際立つが、別の視点から語られることでまったく別の様相を呈する場合もある。起こった出来事はただ一つであるが、そのただ一つの事実が意味するものはそこに関わった人の数だけあり、また、同じ数だけ物語も存在する。こうやって事実は、個人のフィルターを通して歪曲していき、やがて、その歪曲された物語が事実となっていく。たとえそれが本当の事実とは違っていようとも。 

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【書評・ブックレビュー】 『すみれの君』 アルフレート・ポルガー(『ウィーン世紀末文学選』『心にのこった話』所収)

貴族には果たすべき義務があるのです。たとえこの悲しむべき共和国には見捨てられた種族だとしてもーー

 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)。フランス語で「高貴さは強制する」、すなわち、高貴な者は相応の振る舞いを強いられるということを示す文句である。彼らは好き好んで気取っているのではない。自らの高貴さによって、高貴な振る舞いを「強いられている」のだ。そして、世の中から高貴さが失われゆく時にこそ、この規範に従った振る舞いが最も鮮烈に輝くという事実は、何とも皮肉なものと言えるだろう。

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【書評・ブックレビュー】 『今日の経験ーー阻む力の中にあって』 藤田省三(『全体主義の時代経験』所収)

私たちは経験の消滅という「最後の経験」を生きつつあるのだから。

 苦難の経験、未知との遭遇こそが、本当に人を成長させる。あまりにも言い古された言葉ではある。しかし、その経験が人に取り返しのつかない痛みを与えるものであったら・・・・・・。実は、それこそが本来の意味での経験である。では、その本来の意味での経験が、最後の最後まで予測し尽くされ、徹底的に排除し尽くされて、ありとあらゆる経験が我々の人生から失われてしまったら・・・・・・。

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【書評・ブックレビュー】 『断食芸人』 フランツ・カフカ

感じない人間には、わからせることはできないのだ。

 人には、承認欲求という感情があり、これには他者承認と自己承認との二つの種類がある。職人やアーティストなど芸を志したり一つのことを追求するような人は、この二つの承認欲求を生きる糧としているのではないだろうか。重要なのは、これら二つの他者承認と自己承認は必ずしも一致しないことである。このジレンマはいい意味では創作活動のモチベーションとなるが、一方では逃れられない孤独を浮き彫りにする。

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【書評・ブックレビュー】 『どくろ杯』 金子光晴

できれば、妻をその恋人からひきはなすための囮にかけたパリまでのこの先の旅など、手つけながれにして、忘却の時間をかけてなんとか立直るまで、この上海の灰汁だまりのなかにつかっていてもいいとおもった。

 戦前の日本人にとって、海外経験は意外にありふれたものだったのかもしれない。海外旅行は現在とは比べものにならぬほど困難であったが、移民や出稼ぎなどの長期滞在・永住の経験については随所で耳にする。世界各地で日本人のコミュニティが組織され、独自のネットワークを築いてもいたらしい。そして、それらの点と線を結ぶようにして行きつ戻りつしている人々の中に、彼ら「ごろつき」がいたのである。

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【書評・ブックレビュー】 『冬の蝿』 梶井基次郎

私は日を浴びていても、否、日を浴びるときはことに、太陽を憎むことばかり考えていた。

憎悪と憂鬱

 むき出しの敵意を向けてくる相手よりも、優しく温かいなりをした相手、それでいて終いには自分を陥れるであろうその相手を、我々は一層深く憎むことがある。しかし、そもそも表情や態度すら読み取れない相手には、漠然とした恐怖と底なしの無力感とをもって接するより他にない。

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