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【書評・ブックレビュー】『ハーモニー』 伊藤計劃

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御冷ミァハの幽霊と、零下堂キアンの無邪気さのあいだ。
そこでわたしは宙吊りになっている。

  西洋で発展してきた芸術や科学には、ある一定の「方向性」がある。一見複雑に見える事象にも、まだ人類が発見していない”ミッシングリンク”があるはずという推測のもと研究されていることも多い。確信めくほどに自明だと思われる「調和」は、人間の意識の憧憬であるのかもしれない。人の意識は、「調和」を求めている。逆に言えば、人間の不完全さが複雑さを生み、それに意味を見出すことが、意識の役割(生きる意味)であるようにも思われる。

  そのように振る舞う「意識」が向かう先が「調和」であるのあならば、人類が完全に「調和」を獲得した世界は、どうなるのだろうか。生きることの意味は、すべて「進化論」に還元されてしまうのだろうか。行く先がユートピアであろうとディストピアであろうと、いずれにせよ、今できることは、人類が完全さと不完全さの間でたゆたっている束の間に、何らかの意味を見出そうとあがくことだけだ。



集合的無意識が求めるフィクション

2008年に刊行された伊藤計劃の長編SF小説『ハーモニー』は、翌年の彼の死後も現在まで、多くの影響をもたらしている。「伊藤計劃以後」と多少大げさに表現されているが、歴史的なユートピア/ディストピア小説は、世界の転換点で、たびたび再注目を浴びる。最近でも、トランプ氏のアメリカ合衆国大統領就任において、ジョージ・オーウェルの『1984』の売れ行きが伸びているように、人々は、未来の行く末をフィクションの中に見出し、それをフィクションの力で変えようとしているのかもしれない。

半世紀以上前に起きた全世界を巻き込んだ<大災禍>(ザ・メイルストロム)と呼ばれた核戦争は、その人間の野蛮さを目の当たりにした人類を、争いのない慈しみに満ちた世界へと導いた。<生府>(ヴァイガメント)と呼ばれる組織が、人の体内に<WatchMe>と呼ばれる「恒常的体内監視システム」を人の体内にインストールし、全人類を監視下におくことで、社会は、病気や苦しみがなく、他者を慈しみ、支え合い、ハーモニーを奏でる社会へと変貌していった。日々成長し変化する子供の身体に恒常性を見張るための医療分子WatchMeを入れることはできないが、新しい世界は子どもたちに、「リソース意識」と「公共性」を植え付けていく。

御冷ミァハは、もうすでにデッドメディアとなった本などから、昔の時代の常識や慣習を学び、自分の身体や意識が自分だけのものであるうちにこの世界に対抗しようと、霧慧トァンと零下堂キアンとともに自殺を図った。結果、二人のカリスマだったミァハだけが命を落とし、トァンとキアンは、この慈愛に満ちたディストピアに取り残され、それぞれの大人への道を歩んでいく。

 

『ハーモニー』の土台となっているユートピア/ディストピア小説には次のようなものがある。

  • 『エレフォン』 サミュエル・バトラー(Samuel Butler, 1835 – 1902)
  • 『すばらしき新世界』 オルダス・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894 – 1963)
  • 『1984』 ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903 – 1950)

 

権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在の最も秘密の点。もっともプライベートな点。 − ミッシェル・フーコー

  生命主義社会:調和(ハーモニクス)を第一とする社会では、WatchMe(恒常的体内監視システム)を体内に入れることが大人になる通過儀礼となっている。この世界での「大人」とは、「公共性」と「リソース意識」という意志をシステムに明け渡した人ということになる。生府は、人類に、生きることの公共性を与え、「死ぬ権利」を奪った。ときに、「生きる意味」は「如何に死ぬか」と同義になる。

  これを体現しているのがキアンで、これを忌み嫌い戦ったのがミァハだった。

  最後の選択は、トァンにかかっていた。

自明であること、多様であること

  価値を供給する側が多様であることと、価値自体が多様であることは必要なことであるが、果たして、価値判断が多様である必要があるのだろうか。趣味・嗜好が多様であることを最初から価値判断とは別に考えれば、あらゆる側面から分析し判断された場合に、価値は万人にとって自明のものとなる。下された判断を受け入れるか拒否するか、どう扱うかは、趣味・嗜好の範疇におさめれば良い。

  学問的な純粋理論が現実と一致しないのは、個々の人間の価値判断と選択基準が非合理的で、不完全であるから。普段人々が、「人それぞれの価値観」や「個性」と呼んでいるものは、その非合理性を正当化しているに過ぎない。個人が尊いのは、死があるからであり、人が生まれてから死ぬまでの時間が限られているからである。

〈theorem:number〉

〈i:こどもがおとなになると、言葉になる〉

〈i:おとながしびとになると、泡になる〉

〈/theorem〉

いや、それは正確じゃない。より正しく言うのなら、

〈rule:number〉

〈i:こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない〉

〈i:おとなは死んだら、泡になるまで分解されなくてはならない〉

〈/rule〉

という禁止で語られるべき。

  人類の意識が生物の進化の過程でもたらされた産物であり、その過程で獲得してきたものは、人間の不完全さ、つまり意識がもたらすアンビバレンスを解決するための技術で、その意識が人類の進化を方向づけている。ものごとに調和や美を見出し、それを追求していくことは、人類が集合的無意識の顕在化を夢見ているとも言える。いまは、それが実現したときに、『ハーモニー』の結末が訪れないことを祈りながら「意識」がもたらす中途半端さを失えないでいる。

文字列に感情を「想起」させる

  この作品の冒頭では、etml:Emotion-in-Text-Markup-Languageの宣言が書かれていて、作品の一部の文章が、「タグ」と呼ばれるものでマークアップされている。Webでは、html:Hyper-Text-Markup-Languageというマークアップ言語と呼ばれるものを使い、文字列に意味付けをしていく。コンピュータは、記述された文字列の「意味」を理解することはできない。つまり、htmlの本質は、「人間の言葉を機械が適切に処理できるように定義すること」である。

  誰もいがみ合うことがなく、争うことのなくなった幸福な高度福祉社会で、ネガティブな感情は失われてしまっていた。だから、失われてしまったネガティブな感情を公に伝えるためには、etmlという言語でその感情でマークアップするしかなかった。その世界では、物語も多様に解釈されることはない。ハーモニー後の世界の住人にとっては、etmlが、まるで神話のようなこの物語を抒情詩にする役目を担っているのかもしれない。

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